以前公開した記事の中で、「パターナリズム」という言葉を使いました。
今回はこの言葉の意味や、そこから父(パパ)でもある私が子供や周りとのコミュニケーションについて考えていることを、書いていきたいと思います。
そもそも「パターナリズム」とは?
パターナリズムの語源は、ラテン語の「pater(父)」です。日本語では「父親的温情主義」なんて訳されたりするらしいです(日本語では聞いたことないですが…)
意味をざっくり言うと、
立場の強い人が、良かれと思って弱い人の意思を尊重せずに介入したり、行動を変えさせたりすること
です。
たとえば、
・親が子どもの進路や習い事を勝手に決めてしまうことや、
・上司が部下に「お前のためだ」と仕事のやり方を押し付けること
などがパターナリズムになります。
で、よくある「こっちの方が正解に近いと思うよ。でも、最後に決めるのはあなただよ」というアドバイス。一見すると相手に自己決定権を委ねているようですが、日頃の対応や関係性のせいで、実質的に「断りにくい空気」を作っていたとしたらそれはもう、相手をコントロールしようとする介入になってしまいます。
結果的に相手が喜んだら、介入してもいいのか?
ここで疑問が浮かびます。
相手のためを思って介入し、結果的に相手がフルマックスで大満足したとしたら、それは肯定されるのかどうか
私の思いとしては、やっぱり良くないと思います。
たとえ結果的に喜ばれたとしても、その瞬間に相手から「あ、この人は自分の領域に介入してくる存在なんだ」と思われること自体が問題なのです。
一度でもそういう存在だとみなされてしまったら、それ以外の何気ないコミュニケーションの質にまで、決定的な違いが生まれてしまうと思います。フラットな関係性は崩れ、どこかでラベルを貼られたような対話になってしまいます。
「自分で選んだ」という感覚と、選択肢の罠
反対に、もし結果的に失敗して悲しむことになったとしても、本人の中に「自分で選んだ」という感覚を持てることが何より大事なんじゃないかと思います。
ただ、ここでさらに悩ましい問題があります。
「じゃあ、いくつか選択肢を提示して選ばせればいいのか?」というと、それも手放しで良いとは言いきれないのです。
AとBの選択肢をこちらが用意して「どっちにする?」と提示すること。それは一見相手を尊重しているようでいて、実は「自分が望む枠組みの中」だけで選ばせようと、巧妙に相手をコントロールしていることになるんじゃないか。そんなことも気になっています。
コントロールを手放し、見守ること
「自分のどんな行動が、他者をコントロールしようとしているか?」
この問いは、常に自分に対して疑い続けていたいと思います。
ちなみに、
パターナリズムの対義語に、「マターナリズム(母親的温情主義)」という言葉があります。先回りして介入するのではなく、相手のありのままを受け容れ、意思を尊重して見守るという姿勢のことです。
現実の生活の中で、パターナリズムを完全にゼロにすることは難しいかもしれません。
それでも、結果がどうであれ「その瞬間の相手の思い」を最優先にし、マターナリズム的に見守るという意識は、日頃の人間関係の中で忘れないようにしたいです。
