町田そのこさんの『月とアマリリス』を読みました。
著者にとって初めての本格サスペンスだそうです。
おもしろすぎました。個人的2026年ベスト本にランクインです。
小さい社会課題が散りばめまくられた社会派ミステリー。犯人は最初に明かされるんだけど、動機とか経緯を探るタイプのやつですね。
私は自分を愛してるんですけど、自分のことがちょっぴり嫌いになるから、自分大好きなひとにおすすめです。
町田そのこ『月とアマリリス』
※Amazonアソシエイトのリンクを含みます。
私は犯人を探しながら読んでいませんでした。人を埋めているシーンからなので犯人は明白です。この小説が隠していたのは犯人ではないけど「謎は」ずっとあるのでそれを楽しみながら読んでました。
※ ここから先はネタバレを含んだり含まなかったりします。結末そのものは書きませんが、まっさらな状態で読みたい方はここで引き返してください。
事件の謎から人間の謎へ
前半で追っているのは、誰がやったか、どうやったか、という事実の謎です。ところが読み進めるうちに、いつのまにか問いがすり替わっている。誰がやったかはもう問題ではなくて、なぜこの人はここまで来てしまったのか、を追っている。
事実の謎から、人間の謎へ。
その入れ替えが早い段階で始まっているので、犯人当ての緊張が立ち上がりません。肩透かしと言えば肩透かしなんですが、この小説はそもそも別の勝負をしていたんだと思います。
謎の数自体は進むほど増えていきます。ひとつ解けると次が出てきて、それが解けるとまた出てくる。でも増えた謎はどれも最初の問いにぶら下がったままで、散らからずに最後にちゃんと戻ってくる。読んでいて迷子にならないのは、そのおかげだと思います。
正しさの加害性について
主人公の飯塚みちるは、元週刊誌の記者です。
いじめで自殺した女の子の事件を追って、加害者グループの一人として、ある男の子の名前を記事にしました。書くべきだと思って書いたんだと思います。
でもその子は、いじめを止めようとして脅されて、加害者の側に立たされていただけでした。記事が出たあと、その子は自分で死のうとします。
みちるが記者を辞めたのは、嘘を書いたからではありません。事実を書いて、人を殺しかけたからです。
ここが刺さりました。
私もこのブログで、社会のことを書いています。もちろん想像や妄想や理想論も書きますが、(自分は)正しいと思って書いているし、事実に基づいているつもりでもある。でも、正しさと事実だけで書いた文章が誰かを追い込むことは、たぶんあります。というか、あった気がします。
正しさの加害性についても考えたいなと思いました。
物語にすることでしか運べない領域
著者は執筆前に、ノンフィクションライターと週刊誌編集者に取材しているそうです。舞台を地元の北九州にしたのも、現実味を持たせたかったからだと。つまり作者は、現実を書こうとしている。
にもかかわらず、ノンフィクションではなく小説を選んでいます。
事実を並べるだけでは届かないもの、あるいは、事実を並べること自体が人を傷つけてしまう領域がある。記者を主人公に据えたこの小説は、それを主題として抱え込んでいるんだと思います。
社会課題を扱う本は山ほどありますが、そのほとんどは棚の前を素通りされます。物語にすることでしか運べない荷物がある、ということなのかもしれないなと思いました。
読みながら、私はある女性を疑っていました。あえて具体名を言わずにいうと「人を切りつけて逃げた人」です。
その人の邪悪さを探そうとしていたわけではありません。でも情報の出る順番が「この人が怖い人だ」という並びになっていて、素直にそう読んでしまいました。
でもあとで内実がわかると、しょうがない、、、のか、、?とも思いました。
というより、それ以外にどうしろというのか、という状況でした。ミスリードされていたのは完全に私のほうでした。
登場人物のほとんどに、これがあります。加害者に見えた子が被害者でもある。悪いことをした人に事情がある。赦しの手続きはいつも同じで、背景を知ることです。この小説は、登場人物を一人ずつその手続きにかけていきます。
でも、一人だけそれをされない人がいます。また名前を言わずにいうと「最後まで圧倒的な悪のままな人」です。
この人だけはほんとに最後まで圧倒的な悪のまま置かれている。背景が語られない。内側が描かれない。
全員に事情を配ってしまうと、「じゃあ悪い人はどこにもいないの?」になってストーリーとしては美しくないからかもしれません。
あと傷つけられた人の気持ちの行き場を作ったのかもしれません。だから一人だけ悪のまま残した、という設計なのかもしれない。
でも、みちるが最後に書くのは彼女たちの側の話で、その人の内側は誰も取材しない。
赦しが背景を知ることで与えられるなら、背景を知られなかった人は赦されないままです。それは本当に赦されない人だからなのか、それともあえて背景を描かなかったのか。
この小説は答えを出しません。(もちろん私も出せていません。)
私は月かアマリリスか
タイトルの二つは、作中で直接は説明されません。ただ、ぼんやりと説明されます。
アマリリスの花言葉は「おしゃべり」だそうです。作中には、子どものころにお菓子を持ち寄ってただ喋るだけの集まりが出てきます。評価も結論もない場所です。悲劇が起きたのは、誰も話さなかったからではなくて、話せる場所がなかったからでした。
他方、月は全部を照らすのに何も言いません。裁かないし、救わない。ただ見ている。
読み終わってタイトルの意味を考えて、私は月に民主主義を感じました。正確には民主主義の良くないところと重なりました。
制度としての民主主義は、声を上げる人がいて、それを拾う人がいて、聞く人がいて、はじめて回ります。
この小説に出てくるのは、その最初の段階でつまずいている人たちばかりです。上げる場所がない。上げても届かない。届いたら届いたで、書かれた事実が別の誰かを刺す。
制度があるのに浸透しない、とよく言います。でもそれは制度の設計というより、話せる場所が消えていることの結果なのかもしれません。
「対話しなさい」と言うのは簡単です。でもこの小説が言っているのは、たぶんそこではなくて、話せる場所をなくさないでくれ、ということだと思います。
ただ、幸い私には、話す友達がいます。その意味では、アマリリスの側でもあるよなとも思います。
アマリリスみたいな場所が、いまこの世界にどれだけ残っているのかなと思います。